行基菩薩

                                              行基菩薩
 
 
 
平安時代の日本には、何と、( 仏教を民衆に 教えてはならない。)、という
今では信じがたい 国法があった。
 
彼ら支配層、天皇、貴族、豪族、奈良仏教の 堕落僧侶達は 民衆から
税を取り立てて、のうのうと暮らしているにもかかわらず、民衆が知恵を
つける事を、極度に恐れた。  
 
権力者が、寺院 仏閣 仏像を建造しても、民衆は そこに立ち入る事さえ
許されなかったのである。 
これは あきらかに、( 人は生まれながらにして平等である。)、という
ブッダの教えに逆らうものであった。
 
そんな中、当時、この事態に腹を立てた 気の強い 一人の僧侶がいた。 
彼の名前を 行基、( ぎょうき )、という。
 
行基三十七歳の時、ついに彼は奈良の仏教僧団を見限って、ただ一人で
国法を破り、近畿一円にて 民衆に 仏教を教え始めたのである。
行基の行く先の村々では、その噂を聞きつけた民衆が集まり、その
人数は時として 数千人に及んだという。 
 
行基は 集まった民衆に説法しながら、弟子 ( 私度僧 )、を作り、付き従う
人々と共に 説法の旅を続けた。  そして その地の農民 商人 武士など、
民衆の願いを受け入れて、布施所 ( 行き倒れの人を救う施設 )、ため池、
橋、寺 仏像、温泉療養所、堀、道場、治水工事、 などの社会事業を
次々と行いながら 仏教を民衆に伝えていった。
 
農民が、「 ここの田んぼには 水がとぼしいのです。」、と訴えれば 行基
「 よし、ここに ため池を作ろう。」、と声をかける。
すると それに応じて、多くの人々 技術者が すぐさま喜んで 行基のもとに
材料や道具を持って集まり、あっという間に 土木工事は完成したという。
 
行基は 好奇心の強い僧だったらしい。 ある日の事、行基一行が旅をして
いると、山の上に 煙のようなものが見えたので、「 あれは何だろう ・・・」、
と 皆で山に登って行ったところ、そこに温泉が湧いていた。
「 これは良い。 人々が 農作業に疲れた時に 療養できるではないか。」、
という事で、その場に温泉施設が作られた。
 
このように 行基の呼びかけによって作られた諸々の施設の数は多く、計り知れない。
 
しかし当然、この事態は 朝廷と 奈良仏教僧団の知るところとなった。
仏教を民衆に説く事は、当時 重罪である。 「 あいつ、何という事を !! 」、
驚いた朝廷は、行基を捕縛しようと、すぐさま軍隊を差し向けた。
 
しかし この情報は すぐに民衆に知れ渡り、行基を守る為に圧倒的多数の 農民、武士たちが 竹槍などの武器を持って 結集したのであった。
又、行基は 気が強いだけあって、怒ったら その剣幕は凄かったらしい。
 
結局、追手の兵隊達は 行基に怒鳴られて 腰を抜かし、「 帰れ ! 帰れ ! 」
という 民衆の声に見送られて、逃げ帰っていくという ありさまとなった。
しかし 朝廷はそれに懲りず、何度となく 軍隊を送ったが、むだであった。
 
しかし 奈良仏教僧団は、くやしくてしかたがない。 役人を使って近畿一円
に、「 行基という 小僧の説法は、決して聞いてはならない ! 」、という 立札
を立てさせたが、これ又 むだに終わった。  
ーー 民衆のほとんどは 字が 読めなかったからである。
しかし たまに、字を読める庄屋や武士が これを読むと、人々は すぐさま
立札を抜いて 捨て去った。
 
度重なる弾圧も むだに終わり、ついに朝廷側も 「 もうあいつはほっとけ 」
という事になり、行基と その一行は 仏教を 民衆に説き広め、それぞれの地で、民衆の願いを聞いては 土木工事や寺を作り、旅を続けたのだった。
 
ちなみに、後年 奈良の大仏ができたのも 行基の力であった。
今では、近鉄奈良駅前と、兵庫県昆陽池公園に、行基の肖像がある。
 
                                             
 
 
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