仏教について ( 1 ) 戒律

           仏教について ( 1 ) 戒律
 
 
昔、僧侶に近づいて、ある人が聞きました。
 
「 仏教って何ですか ? 」、
 
「 悪い事をせず、良い事をして、自ら 自分の心を浄める事、これが
 諸々の仏の教えである。」
 
「 そんな事なら、五才の子供でも知っているよ。」
 
「 五才の子供でも知っているが、八十才の大人でも、実行するのは
 むずかしい。」
 
ーー という対話があったそうです。
 
 
ーー ブッダ ( Buddha ) は、聖者の称号です。 
その意味は、( 真理から来た人、神々と人間を導く人 ) という意味で、
めったに この世に出ないとされています。   インドでは、過去に
六人のブッダがこの世に現れたと伝えられていて、私達が言うところの
ブッダは、七人目のブッダと呼ばれる事があります。 
ブッダの姓は、ゴータマです。

 

ブッダは、インドで活躍されましたが、生誕は現在のネパールにあった
シャーカ国の王子で、生まれた所も ネパールのルンビニーの園でした。
人種的には、我々日本人と同じ モンゴロイドです。
 
若くして 国を捨てて修行生活に入り、35才で悟りを開いて 説法の旅に
出られました。 やがて人々は、「 この世にブッダが現れた ! 」、と、多くの
国王や賤民にいたるまで、その説法を聞こうとして集まり始めました。
 
ブッダは、人々には、布施、持戒、昇天論 を説かれました。  つまり、
何物でも 分かち合い、いましめを守り、幸福に生きて、亡くなれば天上に
行く。 と、人々に教え、励まし、喜ばせたと、仏典には伝えられています。
 
( サンガ )、という出家修行者と 在俗信者の集団には、戒律がありました。戒とは、いましめ、自分に対しての誓いです。 つまり、怒りっぽい人は、
( 自分は怒らないにしよう )、と努めます。
律とは、これをやってはならないという集団の約束です。
 
現在の仏教僧には、245ほどの為してはならないという律がありますが、
ブッダ在世の頃には、もう少し少なかったと思われます。
これに対して、ブッダが在俗の人々に説いたのは、たった五つの戒です。
 
1、 人を殺してはならない。 たわむれに生きものを殺してはならない。
 
2、 他人の物を盗んではならない。 
 
3、 嘘をついてはならない。  法廷で偽証してはならない。
 
4、 男女共、浮気 不倫をしてはならない。
 
5、 精神を錯乱させるものを含飲してはならない。  麻薬とかですね。
   ちなみに ブッダは、在家の人に酒を飲むなとは説いておられません。
 
ーー これが在家の五戒です。
 
殺すな、盗むな、という事は、当時の戦国時代にあっては、当然、非戦
という事になります。 従ってブッダは、侵略軍が進軍する道に、一人で
座り込んで 、その軍勢を 追い返したという事実が 幾度かありました。
 
やってはならない という戒律を述べてきましたが、やるべき事もあります。
 
京都に 六波羅蜜寺という寺院がありますが、波羅蜜は、パラミター
( 完成態 )、の音訳です。 六波羅蜜は、人が為すべき 六つの項目です。
 
1、 布施。 平等に何物でも分かち合う事、托鉢の修行者を拒ばない事。
  財ある者は貧しい者に、知恵ある者は知恵を、力ある者は力を、布施
  する事。 平等覚です。  財なき者には、無財の七施があります。
 
2、 持戒。 自分に対する戒めを守って、心を清める事です。
 
3、 忍辱。 忍耐です。 人の心を我が心とし、仏心を育てるという
  修行です。
 
4、 精進。 日々の努力です。 誠心誠意をつくして生きます。
 
5、 禅定。 瞑想する事。 又、自分自身を客観的に見ます。
 
6、 智慧。 知恵とは、学歴や知識、頭の良さとは関係がありません。
  何が正しいかを識別し、正しく 真っ直ぐに生きていく事です。
 
 
ーー 仏教には、他の宗教には無い 多くの特質があります。
まず、神々の存在は認めるが、「 その権威を認めない。」 という事です。
自帰依 法帰依ですが、これについてはいつか説明しようと思っています。
 
これも仏教の 他に無い特質の一つですが、教義とその境地を、一つづつ
上に上がっていくのが 修行の方法です。
たとえば、( 慈悲 )、という言葉は、四無量心の 慈 悲 喜 捨 の略です。
 
慈、( いつくしみ )、を修養して自分の心にすれば、心は自然に 貧しい人、
苦しんでいる人、差別されている人達を救おうとして そこへ向かいます。
たとえば、浄土宗の聖者たち、マザーテレサ、等々 ・・・
これが、( 悲 )、です。
 
これを修養して自らの心にし、弱者を救済すれば、さらにその上に、( 喜 )
があります。  人々の喜びを 自らの喜びにする事です。
その境地に安住します。 
 
又、その境地を超越して、( 捨 )、に至ります。 
全てを捨てた 平安なる境地に至ります。
 
仏教では、( 捨 )、捨て去る事が教えとして よく説かれます。
一例ですが、仏教説話の ジャータカ物語の中にある話ですが ・・・・・
 
森の中に一匹の猿が住んでいました。  ある日、猿は壺を見つけます。
手を入れてみると 栗がたくさん入っているのがわかりました。
猿は喜んで栗をたくさん 手につかみました。 ところが今度は手が壺から
抜けなくなってしまいました。
 
猿は困って、このまま死ぬのかと思っていると、森のふくろうが飛んできて
「 その壺の中にある 栗をつかんでいる 君の手を放せよ。  そうすれば
助かるよ。」、と声をかけました。 そのようにして猿は救われたのでした。
 
 
                                             ・
 
 

大日如来真言

             大日如来真言

 
 
       
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       三千世界、七福即生。
 
       一切の 生きとし生けるものは、幸福でありますように。
 
       平和でありますように。 安らかでありますように。
 
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       オン・アビラ・ウン・ケン・ソワカ
 
       

 
 

ブッダの言葉 ( ダンマ・パダ ) 11

                         ブッダの言葉 ( ダンマ・パダ ) 11

 
 
 
善き人々は遠くにいても輝く、 ーー 雪を頂く高山のように。
 
つとめはげむのを楽しめ。 おのれの心を護れ。 
自己を難所から救い出せ。 ーー 泥沼に落ちこんだ象のように。
 
事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。 どんな事にでも満足
するのは楽しい。 善い事をしておけば、命の終るときに楽しい。
あらゆる苦しみを除くことは楽しい。
 
世に母を敬うことは楽しい。 また父を敬うことは楽しい。
世に修行者を敬うことは楽しい。 世にバラモンを敬うことは楽しい。
 
どれだけ親孝行をしても、しすぎるという事はない。 なぜなら親は
あなたを産み、育て、そして この世を見せてくれたからである。
 
老いた日に至るまで戒めをたもつ事は楽しい。 信仰が確立している
事は楽しい。 明らかな知恵を体得することは楽しい。 
もろもろの悪事をなさないことは 楽しい。
 
愛欲に駆り立てられた人々は、罠にかかった兎のように、ばたばたする。
それ故に修行者は、自己の離欲を望んで、愛欲を除き去れ。
 
手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、
内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、
ーー その人を ( 修行者 ) と呼ぶ。
 
口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを
明らかにする修行者 ーー かれの説くところは やさしく甘美である。
 
修行者よ。 この船から水を汲み出せ。 汝が水を汲み出したならば、
船は軽やかに やすやすと進むであろう。 貪りと怒りとを断ったならば、
汝はニルヴァーナ ( 安らぎ ) に おもむくであろう。
 
修行者は、身も静か、ことばも静か、心も静かで、よく精神統一をなし、
世俗の享楽物を吐きすてたならば、( やすらぎに帰した人 ) と呼ばれる。
 
バラモンよ、流れを断て。 勇敢であれ。 諸々の欲望を去れ。
諸々の現象の消滅を知って、作られざるもの ( ニルヴァーナ ) を知る
者であれ。
 
太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、
バラモンは瞑想に専念してかがやく。 しかし ブッダはつねに威力もて
昼夜に輝く。
 
悪を取り除いたので ( バラモン ) と呼ばれ、行いが静かに休まっている
ので ( 道の人 ) と呼ばれる。 おのれの汚れを除いたので、そのゆえに
( 出家者 ) と呼ばれる。
 
身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つの所について慎んで
いる人、 ーー かれをわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
螺髪を結っているからバラモンなのではない。 氏姓によってバラモン
なのでもない。 生まれによってバラモンなのでもない。 真実と理法とを
まもる人は、安楽である。 かれこそ真のバラモンなのである。
 
蓮葉の上の露のように、錐の先の芥子のように、諸々の欲情に
汚されない人、 ーー かれをわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
強く あるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず また
殺させることのない人、 ーー かれをわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、
清らかな人、 ーー かれをわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
快楽と 不快とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界に
うち勝った英雄、 ーー かれをわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
 
 
 

ブッダの言葉 ( ダンマ・パダ ) 10

                             ブッダの言葉 ( ダンマ・パダ ) 10
 
 
 
 
ものごとは 心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも 清らかな心で話したり 行ったりするならば、福楽は その人に
つき従う。 ーー 影がそのからだから離れないように。
 
道に思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、常に たけく奮励する、思慮ある
人々は、安らぎに達する。 これは無上の幸せである。
 
うず高い花を集めて 多くの花飾りをつくるように、人として生まれ また
死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
 
真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
聖者の説きたまうた真理を、賢者は つねに楽しむ。
 
深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ
清らかである。
 
人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。 善い事を心がけよ。
善いことがつみ重なるのは楽しみである。
 
こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。
なんじは もはや怒り罵ることがないからである。
 
さあ、この世の中を見よ。 王者の車のように美麗である。
愚者はそこに耽溺するが、心ある人は それに執著しない。
 
以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、
その人はこの世の中を照らす。 ーー あたかも雲を離れた月のように。
 
以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、
その人は この世の中を照らす。 ーー 雲を離れた月のように。
 
健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己
であり、ニルヴァーナ ( 安らぎ ) は最上の楽しみである。
 
徳行と見識とをそなえ、法に従って生き、真実を語り、自分のなすべき
ことを行う人は、人々から愛される。
 
久しく旅に出ていた人が 遠方から無事に帰って来たならば、親戚・
友人・親友たちは かれが帰って来たのを祝う。
そのように善いことをして この世からあの世に行った人を善業が
迎受ける。 ーー 親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
 
生きものを殺すことなく、常に身をつつしんでいる聖者は、不死の境地
におもむく。 そこに至れば、憂えることがない。
 
心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。 心について慎んでおれ。
心による悪い行いを捨てて、心によって善行を行え。
 
恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て
清く暮らす人は、生活し難い。
 
多く説くからとて、そのゆえに かれが賢者なのではない。 
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、
ーー かれこそ ( 賢者 ) と呼ばれる。
 
ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が ( 聖者 ) なのでは
ない。 天秤を手にもっているように、いみじきものを取り もろもろの悪を
除く賢者こそ ( 聖者 ) なのである。 かれは そのゆえに聖者なのである。
この世にあって 善悪の両者を秤にかけて測るように、よく考える人こそ
( 聖者 ) とよばれる。
 
ことばを慎み、心を落ち着けて慎み、身に悪を為してはならない。
これらの三つの行いの路を清く保つならば、仙人 ( 仏 ) の説きたもうた
道を克ち得るであろう。
 
 
 
 
 
 
 
                                            ・
 

ブッダの言葉 - ウダーナヴァルガより ( 4 )

       ブッダの言葉 - ウダーナヴァルガ より ( 4 )

 
 
 
諸々の作られた事物は 実に無常である。 生じ滅びる性質のものである。
それらは 生じては滅びるからである。 それらの静まるのが安楽である。
 
この世においては、過去にいた者どもでも、未来に現れる者どもでも、
一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。 
智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな
行いを なすべきである。  
 
修行者らは、つとめはげむのを楽しめ。 よく戒めをたもて。 
その思いをよく定め統一して、自分の心をまもれかし。
 
神々は功徳をほめたたえる。 正しい行いをなす人は、この世で非難
される事がなく、また 死後には 天にあって楽しむ。
 
身体によって善いことを為し、ことばによっても 心によっても善いことを
するならば、その人は この世でも、また かの世でも幸せを得るであろう。
 
「 その果報は わたしには来ないであろう。」、と思って、善を軽んずるな。
水が一滴ずつしたたり落ちるならば、大きな水瓶でも満たされるのである。
気をつけている人々は、少しずつでも善をなすならば、やがて福徳に
みたされるのである。
 
怒りが起こったならば、それを捨て去れ。 情欲が起こったならば、それを
防げ。 思慮ある人は 無明を捨て去れ。 
真理を体得することから 幸せが起こる。
 
自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりも すぐれている。
つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、ーー このように明らか
な知恵ある修行者の克ち得た勝利を 敗北に転ずることは、神々も、
なし得ない。 悪魔も、梵天もなし得ない。
 
世の中は 泡沫のごとしと見よ。 世の中は かげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王も かれを見ることがない。
 
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつの所で共に
喜ぶ。 彼は、自分の行為が清らかなのを見て、喜び、楽しむ。
 
諸々の欠点を断ち、ターラ樹葉の先のように根絶やしになり、憎しみを
のぞき、聡明である人、ーー かれこそ 「 端正な人 」、とよばれる。
 
森は楽しい。 世の人々は ここで楽しまないが、情欲のない人々は 
ここで楽しむであろう。 かれらは快楽を求めないからである。
 
すでに旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆる束縛をのがれ、解脱した
気高い人には、悩みは存在しない。
 
世にあって、情欲を離れ、諸々の欲望を超えているのは、楽しい。
「 我がいるのだ 」、という慢心をおさえよ。 これこそ最上の安楽である。
 
重い荷物を捨てたあとには、荷物をさらに引き受けるな。 荷物を引き
受けることは最上の苦しみである。 荷物を投げ捨てることは楽しい。
 
心は、とらえ難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。 その心を
おさめることは善いことである。 心をおさめたならば、安楽をもたらす。
 
心が勇み、こころ楽しく、愛憎に打ち克って、喜びにみちた修行者は
苦しみを滅ぼすに至るであろう。
 
身は飾っていたとしても、徳を行じ、耐え忍び、身をととのえて、慎み深く、
行いが清らかで、生きとし生けるものに対して 暴力を用いない人こそ、
バラモンとも、道の人とも言うべきである。
 
福徳をも禍いをも超え、両方の執著をも超え、執著を超越して とらわれる
ことの無い人、ーー 彼をわれは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
老人であろうと、若者であろうと、道理を識別している人を、尊敬して、
敬礼せよ。 ーー バラモンが火の祭りを尊ぶように。
 
来る者を喜ばず、去る者を悲しまず、執著から脱している、
戦場の勝利者、 ーー かれを われは ( バラモン ) と呼ぶ。
 
 
 
 
 
                                         

仏教について 戒律

                                              仏教について ( 1 ) 戒律
 
 
昔、僧侶に近づいて、ある人が聞きました。
 
「 仏教って何ですか ? 」、
 
「 悪い事をせず、良い事をして、自ら 自分の心を浄める事、これが
 諸々の仏の教えである。」
 
「 そんな事なら、五才の子供でも知っているよ。」
 
「 五才の子供でも知っているが、八十才の大人でも、実行するのは
 むずかしい。」
 
ーー という対話があったそうです。
 
 
ーー ブッダ ( Buddha ) は、聖者の称号です。 
その意味は、( 真理から来た人、神々と人間を導く人 ) という意味で、
めったに この世に出ないとされています。   インドでは、過去に
六人のブッダがこの世に現れたと伝えられていて、私達が言うところの
ブッダは、七人目のブッダと呼ばれる事があります。 
ブッダの姓は、ゴータマです。

 

ブッダは、インドで活躍されましたが、生誕は現在のネパールにあった
シャーカ国の王子で、生まれた所も ネパールのルンビニーの園でした。
人種的には、我々日本人と同じ モンゴロイドです。
 
若くして 国を捨てて修行生活に入り、35才で悟りを開いて 説法の旅に
出られました。 やがて人々は、「 この世にブッダが現れた ! 」、と、多くの
国王や賤民にいたるまで、その説法を聞こうとして集まり始めました。
 
ブッダは、人々には、布施、持戒、昇天論 を説かれました。  つまり、
何物でも 分かち合い、いましめを守り、幸福に生きて、亡くなれば天上に
行く。 と、人々に教え、励まし、喜ばせたと、仏典には伝えられています。
 
( サンガ )、という出家修行者と 在俗信者の集団には、戒律がありました。戒とは、いましめ、自分に対しての誓いです。 つまり、怒りっぽい人は、
( 自分は怒らないにしよう )、と努めます。
律とは、これをやってはならないという集団の約束です。
 
現在の仏教僧には、245ほどの為してはならないという律がありますが、
ブッダ在世の頃には、もう少し少なかったと思われます。
これに対して、ブッダが在俗の人々に説いたのは、たった五つの戒です。
 
1、 人を殺してはならない。 たわむれに生きものを殺してはならない。
 
2、 他人の物を盗んではならない。 
 
3、 嘘をついてはならない。  法廷で偽証してはならない。
 
4、 男女共、浮気 不倫をしてはならない。
 
5、 精神を錯乱させるものを含飲してはならない。  麻薬とかですね。
   ちなみに ブッダは、在家の人に酒を飲むなとは説いておられません。
 
ーー これが在家の五戒です。
 
殺すな、盗むな、という事は、当時の戦国時代にあっては、当然、非戦
という事になります。 従ってブッダは、侵略軍が進軍する道に、一人で
座り込んで 、その軍勢を 追い返したという事実が 幾度かありました。
 
やってはならない という戒律を述べてきましたが、やるべき事もあります。
 
京都に 六波羅蜜寺という寺院がありますが、波羅蜜は、パラミター
( 完成態 )、の音訳です。 六波羅蜜は、人が為すべき 六つの項目です。
 
1、 布施。 平等に何物でも分かち合う事、托鉢の修行者を拒ばない事。
  財ある者は貧しい者に、知恵ある者は知恵を、力ある者は力を、布施
  する事。 平等覚です。  財なき者には、無財の七施があります。
 
2、 持戒。 自分に対する戒めを守って、心を清める事です。
 
3、 忍辱。 忍耐です。 人の心を我が心とし、仏心を育てるという
  修行です。
 
4、 精進。 日々の努力です。 誠心誠意をつくして生きます。
 
5、 禅定。 瞑想する事。 又、自分自身を客観的に見ます。
 
6、 智慧。 知恵とは、学歴や知識、頭の良さとは関係がありません。
  何が正しいかを識別し、正しく 真っ直ぐに生きていく事です。
 
 
ーー 仏教には、他の宗教には無い 多くの特質があります。
まず、神々の存在は認めるが、「 その権威を認めない。」 という事です。
自帰依 法帰依ですが、これについてはいつか説明しようと思っています。
 
これも仏教の 他に無い特質の一つですが、教義とその境地を、一つづつ
上に上がっていくのが 修行の方法です。
たとえば、( 慈悲 )、という言葉は、四無量心の 慈 悲 喜 捨 の略です。
 
慈、( いつくしみ )、を修養して自分の心にすれば、心は自然に 貧しい人、
苦しんでいる人、差別されている人達を救おうとして そこへ向かいます。
たとえば、浄土宗の聖者たち、マザーテレサ、等々 ・・・
これが、( 悲 )、です。
 
これを修養して自らの心にし、弱者を救済すれば、さらにその上に、( 喜 )
があります。  人々の喜びを 自らの喜びにする事です。
その境地に安住します。 
 
又、その境地を超越して、( 捨 )、に至ります。 
全てを捨てた 平安なる境地に至ります。
 
仏教では、( 捨 )、捨て去る事が教えとして よく説かれます。
一例ですが、仏教説話の ジャータカ物語の中にある話ですが ・・・・・
 
森の中に一匹の猿が住んでいました。  ある日、猿は壺を見つけます。
手を入れてみると 栗がたくさん入っているのがわかりました。
猿は喜んで栗をたくさん 手につかみました。 ところが今度は手が壺から
抜けなくなってしまいました。
 
猿は困って、このまま死ぬのかと思っていると、森のふくろうが飛んできて
「 その壺の中にある 栗をつかんでいる 君の手を放せよ。  そうすれば
助かるよ。」、と声をかけました。 そのようにして猿は救われたのでした。
 
 
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ブッダの教え

                                                  ブッダの教え
 
 
 
 ーー ブッダの教えとか、悟りとは どういう事でしょうか。
 
ブッダは、戦国時代の戦争と 快楽主義全盛の世の中にあって、
反戦と、快楽の不浄、倫理、道徳を説かれました。
 
( 諸行無常 )、この世の物は全て移り行く。 心や肉体ばかりではなく、
 分子レベルで見れば 物質は絶えず動いていて、石でも結晶して 
 宝石や水晶になります。
 
( 諸法非我 )、この世では、体もふくめて 私の物というものは 何もない。
 自分の肉体も、何ものも 自分の思う通りにはならない。
 
( 涅槃寂静 )、最上の幸福とは、何ものにも動じない 不動の静寂である。
 
     ーー 以上の事を 仏教の三法印と言います。
         さらに、この世界の全ては苦しみである。 という

 

( 一切皆苦 )、を加えて 四法印と言います。 以上が仏教の根幹と
 されています。
 
生 老 病 死 の、この世は苦しみの世界である。 と ブッダは見ました。
 
「 三界を超えた境地を 私は見た。」、というブッダの言葉とか、たびたび
高弟を連れて天界に行き、神々にも説法をしていたという事があります
から、おそらく  一切皆苦という認識は、三界を超越した境地や 天界に
比べて この世は ・・・  苦。  と説いておられたのかもしれません。
 
在家の人々には、布施、持戒、昇天論を説かれた。 と、仏典には伝え
られています。
つまり、なにものでも 分かち合い、戒(いまし)めを守り、正しく 優しく、 
幸福に生きなさい。 そうすれば、他界した後 天界に生まれますよ。 
という教えです。
 
さらに出家して修行する弟子たちには、聖者となって人々を救う教えや
修行を指導しました。
在家より多くの戒律があり、瞑想、托鉢、六波羅蜜、八正道があります。
 
又、自帰依、法帰依。  ーー なにものにも頼らず 自分と真理を燈明と
しての修行を歩みます。
そして、一切世界に対しての 慈しみを守り、悟りを得て 他界後は輪廻を
脱します。 これを 解脱といいます。
 
そんな訳で ブッダは人々や信者達には、幸福の人と呼ばれていました。
多くの国王も ブッダに帰依していたのでした。
 
( 平等覚 )、今でもインドには 悲惨な階級差別がありますが、ブッダは、
 階級差別もふくめて、全ての差別を 完全否定しました。
 「 人間にとっては、生まれによる差別も 区別もない。 
  人間で違うのは、各自の名前だけである。」、と説かれています。
 
10円硬貨の表にある寺院は、京都にある平等院で、仏教の平等覚から
その名がついています。
 
 
ブッダの言葉に、「 世間のダンマ ( 常識 ) と、我々が知っているダンマ
 ( 真理 ) は、正反対である。 この理解し難いダンマ ( 事実 ) を見よ。」
 という説法があります。
 
たとえば 欲望を捨て去る事、慈しみの心を育てる事 等、多々あります。
 
これは その一例ですが、ブッダは 愛情に対しては、厭離 (おんり) する
ようにと 説かれています。 愛執(あいしゅう)、愛情に対する執着です。 
愛は苦になる性質がある。 という事です。 
たとえば 誰でも死にますから、愛している者の死は悲惨です。
 
これは、「 愛執を捨てよ。」、という教えです。 愛という概念には、常に
その対象 (対語) があります。 子供、家族、友人、自己、男女、国家 ・・・ などなどの対象があります。 愛国心は 悪人が持てば凶器になる。
ーー これは歴史が教える通りです。 又、自分の愛する対象以外には
それほどの愛情は持ちません。
又、愛し合っていた夫婦が、時が過ぎれば 愛は消えて 離婚する事も、
よくある話です。
 
これは、愛情を否定しているのではありません。 
愛情に対しては 執著しないで、少し心理的に距離をとろうという事です。
 
 
愛情の上に、ブッダは 慈悲を説かれました。 誰に対しても自分と
同じように、大切に いつくしむという教えでした。
 
慈悲、いつくしみに、対語はありません。 せいぜい無慈悲くらいでしょう。
その意味では、愛を超越した概念です。
これは、もちろん不義を許せという事ではありません。
 
慈、悲、喜、捨、 ーー これを四無量心と言います。
 
慈は、 一切世界の生きものを いつくしむという事です。
悲、は、 悲しみ 苦しみの状況にある人に対して同じ思いで悲しみ、
      救えるものなら 救うという事です。
喜、は、 人々の喜びを同じように喜ぶという事です。
捨、は、 それらを修習して 平安の境地に達する というものです。  
 
中村元博士は、「 世界の 平和、人々の幸福、平等が ブッダの悲願で
あった。」
と、書いておられました。
 
ーー 約二千五百年前に、ブッダが それらを説かれていた事を思えば、
私達人類は、歴史や 聖者の教えから、今まで何を学んできたのかと
考えずにはおられません。
 
 
 
 

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